<6月16日説教要旨>
早朝のガリラヤ湖で、7人の弟子達、焼いた魚と、パンを用意してくださった復活の
主イエスはその後、今ここにおいて、ペテロに三度問われます。「わたしを愛している
か」ペテロは悲しみをこらえつつ、「わたしがあなたを愛していることを、あなたは良
く知つておられます。
もうわたしの真実はお分かりではないでしょうか。
しかし、そこには三度主イエスを拒否した事実があるのです。
ペテロは主イエスに応えます。このふがいない私であってもあなたを愛してやまないこ
とをあなたは知ってくださっているのではないでしょうか。
ペテロの愛の確かさは、このときペテロの決意のうちにはないのです。
主イエスご自身の中にあります。自分の決意など死を目前にすれば、塵のことく崩れ
てしまうのです。ここに深い悲しみがあります。しかし、その悲しみの奥には、また喜
びが潜んではいないでしょうか。
ドイツの元大統領ヴァイゼッカーは、敬虚なクリスチャンでありました。彼は神の前に
脆く心と共に、共に生きる人間として、人間を尊ぶ心に生きようとした人でありました。
彼は、「我々が第二次大戦で犯した罪を繊悔する時に、神の前で悔い改めると言うよ
りも、自分はこんな立派な悔い改めが出来るとか、このこのように悔い改めている自
分があるとか、真実に悔い改めて見せるポーズをとることによって、神にではなく、
人々を納得させようとする。」このように言っています。主イエスはペテロに、ポーズで
はない悔い改めを求めておられます。そこにべテロの痛みと、深い悲しみがあります。
そこに真の愛がある。
 石川啄木の一握の砂の中の一首「たわむれに、母を背負いてその軽きに泣きて三
歩歩まず。幼い時から成人に至っても、母に重荷を背負ってもらってきた。しかし、戯
れに母を背負ってみたら、その軽さに胸が詰まって、三歩も歩めない。もしかして、わ
たし達は主イエスに全ての重荷を背負っていただいているが、人間としてこられた主イ
エスはどうなのだろうか。愛は、自分が愛していると思っている以上に相手は、命をか
けて自分を愛し抜かれている。そのことにわたし達は気付かない。<神はその独り子
をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を愛する者がひとりも滅びないで、
永遠の命を得るためである。(今井浩三師)
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