<6月30日説教要旨>「上から来る喜び」使徒言行録5章17〜42節
 私は小学校の卒業式で受け持ちの先生から艱難汝を玉とする」という言葉を頂いて高
校生ぐらいまで大事にしていました。しかし、高校2年生の時、艱難が玉とするような人
間は強い人だけであって弱い人は艱難によってくじけたり、いじけたり、だめになったり
するのではないかと思うようになり、嫌いになりました。苦しいことや辛いことはできた
らあまり経験したくないと今でも思います。そういう意味では今日の聖書の中で、ペトロ
や使徒たちが迫害の中で鞭打たれて釈放された時、イエスの名のために辱めを受けるほど
の者とされたことを喜びとしたというところに大きな驚きを覚えざるを得ません。しかし、
新約聖書ではこのような喜びについて多くの記録があります。代表的なものはペトロの手
紙一4章12節、フィリピの手紙1章29節に「キリストの苦しみにあずかるほど喜びなさ
い」、「キリストのために苦しむことを恵みとして与えられているのです」と書かれてい
ます。「キリストのために」「キリストの苦しみに与る」「キリストの名のために」の苦
しみを喜ぶ、恵みとして受けるということは通常の人間の理解をはるかに超えていると言
えます。このような喜びは「上から来る喜び」、「聖霊によって与えられる喜び」という
事でしょう。
 イエス様も「私についてきたいと思うものは自分の十字架を追って従いなさい。自分の
命を得ようとする者はそれを失い、私のため、また、福音のために失う者はそれを豊かに
得る」と言われました。この言葉はみんなイエス様に奉げるようで、若いころは厳しい言
葉と思っていましたが、キリスト者として又牧師として生かされた歩みの中で、キリスト
の恵みにお応えしてキリストのために苦しみを引き受けさせていただくとき、聖霊によっ
て上から注がれるとしか言えないような喜びにあずかる者とされることを幾分か知らさ
れてきました。家族の救いの為に家族に仕え、赦し、与える、祈る生き方は、人間的には
つらいことふありますが、キリストのための十字架と思ってお引き受けするとき、力んで
いた自分から解放され、主にお仕えする喜びを頂きます。これは牧師として教会の雑務を
引き受け、時に教会の破れ口に立たされる時にも、「主のために」と思いなおすとき、や
はり主にお仕えする喜びを回復させられたことがあります。また、主の御用のために、そ
の働きのために心を込めてお捧げすることが出来たとき、幾分かは主の御用ためた重荷を
負うものとされた喜びが伴います。聖霊は、このような主に従う歩みに対して今も上からく
る喜びを注いでくださいます。この喜びは世の決して与えることのできない喜びです。そして、
このような喜びこそ初代教会と信徒たちの力の源であったことを覚えたいと思います。
(村田 元牧師)        礼拝内容のページに戻る
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