<8月18日説教要旨〉 
ルカによる福音書4:1〜30
「この人はヨセフの子ではないか」
 本日の、このルカによる福音書14節以下は、主イエスが、どのように伝道の業を始め
られたかということについて書かれています。安息日(現在の土曜日)に故郷ナザレの
(会堂)シナゴーグに入られ、互いに顔を良く知っていた仲間達と礼拝を行っていた。
シナゴーグの礼拝形式は、現在のわたし達の礼拝の原型である。16節「主イエスは、お
育ちになったナザレに来て、いつも通り、会堂に入り、聖書を朗読しようとして、お立
ちになつた」巻物になっているイザヤ書が渡され、お読みになり、解き明かしの説教が
行われた。
 主イエスは、油注がれて、神の御業を告げ知らせる者は、わたしであると、語り始め
た。そして、21節「そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にした
とき、実現した」と説かれたのです。今、この、あなた方が耳にした時、起こっている、
実現している、そして、その言葉を成就する者であると言われたのです。礼拝は、聖書
に耳を傾け、聖書の向こう側から迫ってくる喜びを共に味わうものでありますが、今こ
のナザレの会堂においては悲しむべきことが起こっている。主イエスを、町の外に追い
出し、崖から突き落とそうとする。主イエスを殺そうとしている。そして人々は言いま
す。<この人は、ヨセフの子ではないか>この言葉は、褒め称える言葉でもあるが、逆
に、相手を蔑み、引き落とす言葉でもある。場合によっては、破壊的力を持ち、一言で、
相手を死に至らしめる。わたし達もまた、幼なじみや友人が立派になって現れたときに、
このような言葉を口に語るのではないか。心が複雑に、微妙に働くのではないだろうか。
地縁、血縁を基にしたユダヤ教という狭い民族宗教の中で生きるナザレの会衆には、永
遠、普遍な神の愛を受け入れることは出来ない。<隣人を自分のように愛しなさい>と
神は言われます。自分を愛しなさい。そして神の愛をたっぷりと頂いて、その豊かな愛
をもって隣人を愛する。わたし達も、自分の枠の中だけで推し量る。しかし、永遠、普
遍な豊かな神の愛は、わたしたちの内側から、その狭い殻を打ち破り、心から溢れ出て、
隣人へ、世界の人々へと放出される。ある偉大な伝道者と弟子がいました。弟子は先生
に尋ねました。「先生、わたしには先生のような、溢れるような力がわいてきません。
どうしてなのでしょうか」。先生は言いました。「主イエスキリストに、全てを委ねて
いるか」。弟子はいいました。はい、殆ど委ねています、しかし、委ねる必要がないと
思っていることは、申し訳ないので委ねておりません。>すると先生はすかさず「その
ことだ。全てを委ねたその時に分かる」と言われたのです。永遠、普遍の愛は、わたし
達が信じ、全てをお委ねした時に、あふれる恵みとなってわたし達を包み込んでくださ
る。わたし達は、神から頂いたその愛によって、隣人を愛するのです。
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