<説教要旨>「弟子たちの無理解」 マタイによる福音書21章17〜28節
 今日の聖書の個所でイエスが3度目にご自分の受難と死を告げられました
が、「人の子は3日目に復活する」と確信を持って語られましたので、弟子た
ちはこのことがよく理解できないながら、また、山上でのイエスの変貌と栄光
の雲の中で聞いた天からの声によって、イエスが決定的に敗北されるのではな
いということを感じていたのだと思います。ヤコブとヨハネの母が「主が王座
におつきになるときには息子の一人を主の右に、もう一人を左に座れるよう
にしてください」と頼んだのは、イエスの勝利を信じていたからでしょう。イ
エスが迫害と侮辱と十字架の死を語られても、その困難な道に従うことが「出
来ます」とヤコブもヨハネも答える姿は注目に値します。そして、他の10人
の弟子たちがこの二人のことで腹を立てたということは、彼らもそのような思
いと、願いを持っていたということでしょう。イエスはこのような無理解の弟
子たちにいら立たず、怒らず、絶望せず、噛んで含むようにメシアの真理につ
いて解き明かされる姿に驚かされます。
 「この世の秩序では偉い人は支配し、権力を振るっている。しかし、神の国
では、つまり弟子たちの間では全く新しい秩序に生きる生き方が求められる。
偉くなりたいものは仕える者に、一番上になりたいものは僕となりなさい。何
故なら、人の子は仕えられるためではなく仕えるため、多くの人の身代金とし
て自分の命をささげるために来たから」と。この新しい秩序は、理論ではな
く、イエスご自身の歩まれる歩みによって示されるのであります。後で振り返
りマタイはこの時の無理解な自分たちを見限らずに注がれたイエスの忍耐と愛
をどんなに感謝したことでしょう。
 このイエスの弟子たちへの忍耐と、絶望することのない愛は、実は、聖霊を
通して、ここにいる私たちにも注がれているのです。我々が自分を見限り、自
分を受け入れられないほど落ち込むときに、主は言われます。「あなたがあな
たを見捨てても私はあなたを見捨てない。私の十字架の購いのゆえに、私は世
の終わりまでいつもあなたとともにいる。」と。私たちは,この主の十字架の
愛の確かさに支えられて、自分のみじめさを超えて希望をもって新たに主に立
ち返ることができるのです。
                     村田 元 牧師
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