<4月 5日 受難週礼拝要旨>「十字架の主」マタイ福音書27章32〜56節

 受難週にあたり、本日は十字架の主を仰ぎ見つつ礼拝をささげたいと思いま
す。夜を徹しての大祭司の裁判、リンチに近い暴行ののち、早朝からのピラトの
判決を受けられ鞭うたれてからの刑場への歩みは疲労困憊されたイエスの代わ
りに十字架の横木を担いだのはクレネ人シモンでした。刑場ではエルサレムの婦
人たちが囚人の刑の苦痛をいくばくかでも和らげようと鎮痛剤の投薬入れた苦
い葡萄酒をイエスに差し出しましたが、イエスは舐めただけで飲もうとされませ
んでした。目覚めた心で十字架の苦痛を引き受けようとされたのでした。このよ
うにして十字架刑を受けられたイエスを祭司長や律法学者たちは罵って「神の子
なら自分を救ってみろ」「他人を救ったのに自分を救えないイスラエルの王、今
すぐ十字架から降りるがいい、そうすれば信じてやろう」と。苦難の僕としての
メシアについてイザヤ書53章でイザヤが予言しているように、イエスはご自分
の犠牲の愛の中に神を示されたのですが彼らには受け止められませんでした。人
間の罪は自分の物差しで神のみ旨をも計り、自分の物差しに合わないと認めない
という倣慢さを持っています。まさにそのようにして彼らはイエスをあざけるの
でした。
 3時ごろ、死の直前にイエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれま
した。これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意
味です。人々に見捨てられ、また、今、人間の罪を自らの上に一身に受けられた
主は、罪深い人間が神の裁きの前で、神に見捨てられる闇を体験するように、瞬
間、神に見捨てられるという闇をもお引き受けくださったのです。こうして、も
う一度大きく叫ばれて息を引き取られたのでした。
 ヨハネの福音書では、その最後の言葉は「成し遂げられた」という言葉で
あったとあります。神のみ前にメシアとして彼を信じるすべての人のために救
いの道を開かれた働きが「成し遂げられた」とのお言葉でありましょう。そし
てこの時、エルサレム神殿の神と人との間を遮る聖所の幕が上から下まで真っ
二つに裂けたとあります。イエス・キリストによって神と私たちの間を隔てて
いた幕が取り去られ、私たちがイエスの贖いのゆえに感謝と喜びをもって神の
御許に近づけるようにされたのであります。感謝しましょう。
                           村田 元牧師
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